その845)過度な「ご褒美」は、過度な「懲罰」を生み出しやすくなる。

 

 

「ご褒美」

 

 

これは、人が生きていく上では、大事なものです。

 

 

何かを頑張ったり、何か努力をしたり、その評価を形として

 

自分自身だったり、こどもたちなど他の人に対して与える。

 

 

とても 嬉しい感情を引き出すものです。

 

 

 

その反対に、「懲罰」があります。

 

 

 

何か悪いことをしたり、罪を犯したり、そのことに対して

 

反省を促し、懲らしめるために 与えるものです。

 

とても 嫌な感情を引き出すものです。

 

 

 

ただ、この「懲罰」

 

他人に対しては、「正当性」を持って、与えることができるのですが、

 

なかなか自分に対して与えることは、難しいようです。

 

 

それは、ある意味、当然ですが。

 

 

 

 

この2つを与える基準には、「評価」というものがあります。

 

 

「適正な評価」です。 これに基づいて与えるものです。

 

 

 

 

時に、こどもたちや他人に対して「過度なご褒美」をあげてしまうことがあったり、

 

 

「過度なご褒美」を与える人がいます。

 

 

 

そこには、深い意味はないのですが「過度」に与えすぎてしまうのです。

 

 

もらった本人は、嬉しいのですが。。

 

 

 

そうなると、今度は「自分の期待に沿えないこと」が発生したりすると、

 

どうなるでしょうか? どんな気持ちが起こるでしょうか?

 

 

 

「あんなにたくさん ご褒美を与えてあげたのに、、」

 

 

という気持ちが強くなります。

 

 

 

その反動は、「過度」な「懲罰」に変化します。

 

 

 

 

 

「当然でしょ。あんなにもらったのだから、、」

 

 

 

「過度」な「懲罰」を与えることは、「過度」な「ご褒美」をもらったのだから

 

「当然」なのだ、という意識につながりやすくなります。

 

 

 

 

「ご褒美」が問題ではなく、「懲罰」が問題なわけでもありません。

 

 

「過度」なことが 問題なのです。

 

 

 

 

そこには、「過度な期待」があるからです。

 

 

 

 

「過度な期待」は、時に「大きな懲罰」を生み出すことがあります。

 

 

時に、その「懲罰」は、力を使ったもの、暴力に変化することもあるのです。

 

 

 

 

人の思いが一番 表現される行為。その人を最も的確に表すもの。

 

 

それは「与え方」です。

 

 

 

 

「与え方」が「過度」になれば、それは +の場合も、-の場合も

 

同じような与え方になる可能性が高くなります。

 

それは、その人が持つ「特性」だからです。

 

 

 

 

 

DVも、虐待も 基本的には 同じです。

 

 

 

 

保育者研修で「虐待」の研修が行われる場合、

 

生活習慣や身なり、そうした表面的に見える内容が多いようですが、

 

 

僕が行っている研修では、こうした「人間の基本行為」から構成しています。

 

 

 

そうした行為を行う可能性は、誰にでもあるから です。(げんき)